ごめんなさいの免罪符

最近思う。日本人が、ごめんなさいとすぐに謝ることの罪深さについて。これは何もデジタルに限った話ではないのだが、日本人は総じて謝罪するハードルが低い。目の前のお客さんが少しでも何か不快な顔をすると、おそらく多くのサービス提供者はまず、申し訳ありませんと言葉を発する。しかしこれらのハードルの低さ故に、謝りさえすれば、ことが解は決すると思っちゃいないか。これについては議論の余地がある。

 

大抵のケースでは、目の前のお客さんがお怒りモードの時、まずは鎮火させることが優先される。大体のお客さんは、何か意にそぐわないことがあってお怒りモードなわけだから、とにもかくにもまずは「謝ってほしい」という気持ちを抱くだろう。それはどこかで、自分はお客さまなのだから、優位的な立場にある(ほかにもある選択肢の中からここで買ってあげてるのだから)と考えているからではないか。そこでもし、謝りもせず、こういう理由でお客さまの意向には沿えない、納得できぬなら買ってもらわなくても結構、なんて言ったもんなら、Googleのレビューで星ゼロ、絶対こんなところ行かない方が良いですよと書かれて、大して深く考えもせず反射的に行く場所買う場所を決めている大半の人に来てもらうチャンスを逃す。

 

なんか、変じゃないか。最近思う。もちろん自分も、その大勢の「謝ってほしい」症候群の一人なのだが、ごめんなさいという一言で終わらすことによって、その場はなんとなくおさまったとしても、結局問題の根本は解決せず、先送りになることも多々ある。本来リーダーであれば、何が相手を不快にさせたのか。そこに本当に落ち度があったのか。同じことを繰り返さないために何をすべきかを、しっかり講じる必要がある。

 

ということを考えると、ごめんなさいという言葉をすぐに期待してしまう側。そして条件反射にとりあえず、ごめんなさいと発してしまう側。どちらも緩和させていく必要がある。もう少し、このマインド自体を見直していかないとこの国は良い方向に動いていかない気がする。

不動の価値について

最近、時を経ても変動しない価値とはなんぞや、と考えることがある。

 

時代を超えて愛される場所とか、時を経ても輝きを失わぬものとか、そういう「ロングセラー」的な意味ではなくて(それはそれで掘り下げたいテーマではあるのだが)、「金銭的価値」が絶対的に下がらないものとは何か、下がらないのはなぜなのか、ということを自分なりに分析して論じてみたい。

 

きっかけは、先日行ったアートギャラリー。

 

絵画の価格というのはまさにピンキリで、なかなか素人目には判断しづらい。資産として購入されるケースも多いからか、ブランド価値を高めることで価格をあげていくコモディティ商品とは全く違う考えで価格付けがされていて、これとこれ、ど素人の私が見た感じではほとんど変わらないけど、え、100倍値段違うの!?ていうか、この絵、1億・・!?何それ都内にマンション買えるじゃん!といった感じで、その差の大きさが非常に興味深かった。

 

絵画だけではなく芸術品というのは基本的に一点もの。作り手が世界的に有名な故人であるほど不変の価値があるわけだから、この世界に「富豪」が消滅しない限り、需要が下がる、あるいはなくなることはない。「場所」も「時間」をも超えて、価値が不動なものなぞ、他にあるのだろうか?「不動の資産」という呼び名の土地について言えば、消えてなくなることはないが、周辺環境によって価値は変わるので、不動の価値とは言えない。ダイヤモンドの輝きは永遠だが、ダイヤモンドの希少性が永遠かと言うと、そうとは言えない。

 

と、ここまで資本主義的な視点でのものの価値について語ってしまったが、「ものの価値」の神髄は、そこではない。と信じている。私が今改めて感じる「価値あるもの」とは何か。

 

突然個人的な志向の話にシフトするが、やはり、作り手の哲学、美学、そして苦悩が反映されたもの。そんなものに惹かれる。言葉で補足せずに、それらをかたちにするのは至難の業ではあると思うし、実際自分は、大半の美術品を見ても、解説がないと理解できない。補足説明がなければ、自分のものづくりにかける思い、こだわりは誰にも伝わらないかも知れない。それであっても、解説にたよらず、自らの技能を磨き続け、細部に気を配り、作品と対峙し魂をこめる。そういった精神、生き様が、人の心をうつのだろう。そして、そういった人間の根源的な部分に迫った作品というのは、時代を超えて人の心を惹きつけてやまない。

 

そういったものにこれからもっと出会い、刺激を受けていきたい。そして、第三者の解説なしに、自らの目で主観的に価値を判断できるようになりたい。果たしてそれが、どういう「職業」なのかはわからないが。

想像力とは何か

最近、にわかに気になり始めた作家朝井リョウの「何者」という小説に出てきた一文。

 

「甘い蜜でコーティングをしたような言葉を使って、他人に、理想の自分を想像してもらおうとしている。想像。想像力が足りない人ほど、他人に想像力を求める。他の人間とは違う自分を、誰かに想像してほしくてたまらないのだ。」

 

これはとても心当たりがある。なんというか、言葉というのは不思議なもので、基本的には何かを説明し、人とコミュニケーションをするためのツールであるのだが、時に、暴走する。もちろん、高い理想を掲げて、壮大なビジョンを語れるのは一つの才能だし、そういったストーリーが人々を元気づけ、行動を促すこともある。

 

でも、言葉だけが先走っていないか。伝わった先に、どんな世界を描いているのか。共感を呼びそうなパッケージにしながら、中身は自分自身の利益のため「だけ」になっていないか。

 

人に与えた影響は、良いことも悪いことも、結局自分に返ってくる。年齢を重ねて、たくさんの人と出会い、いろいろな経験を積んできたからこそわかる。その人が心の奥底で、どこを向いているのか。自分自身なのか、目の前の相手なのか、それとも社会なのか。そして、偉大だなと感じる人は、きっとこれらすべてを見て、言葉を発している。

 

今の自分は、多分、大部分で自分のことばかり考えている。そして時に、目の前の相手のことを考え、たまに社会のことを考えている。つまり、自分以外の人への想像力が足りていない。ということを、なんとなく、見透かされた気がした。「何者」でのこの一言が、自分の心にぐさりと引っかかったのは、きっとそういうことなのだろう。

 

「好感度を上げる方法」とか「愛される秘訣」とか、どっかの誰かがお金儲けのために書いたことをそらでなぞるのではなく、相手や、その先の未来を想像することを丁寧にしよう。そう思った。

広告が私に与える悪影響

日々消費されては記憶から抹消されるコンテンツ。心にぐっときた瞬間でさえ、少しすると、そんなこともあったなレベルに記憶の遠いかなたに追いやられている。それほどまでに、日々の情報処理量が圧倒的に増え続けている。そして、感動の耐久性がなくなっている。

 

これは、何なんだろう。加齢による脳の衰えなのか、はたまたコンテンツが量産されすぎていて、情報処理能力とキャパをオーバーしてしまっているのか。いずれにしても、デジタル上で、自らが必要としている情報以外は、たとえ一瞬でも、たとえ一言でも、出てくるな。限られた私の認知キャパに、断りもなく土足で入りこんでくんじゃないよ、と思う。

 

自分にとって、本当に必要な情報かそうでないか。心のアンテナが鈍ってくると、ここの判別がどんどんできなくなってくる。そして、そんな繊細な心のことなんて一切お構いなしに、企業のPRやら発信したい(=認めてもらいたい)症候群の人たちの雄たけびやつぶやきでフィードはすぐにいっぱいになる。目障りだし、やっぱり、どうしても、自分の足跡をどこまでも追ってくるデジタル広告って、不快な気持ちになるのである。

 

この世界から広告をなくすだけで、世界中の人の心はずいぶんとキレイになるのでは。その分、真に美しい、耐久性のある感動、カルチャーが生まれるのではないか。ここ4年間は、ずっと発信側の視点で見ることに慣れてしまっていたのだが、ここ一か月は、完全に見る側の感覚に傾いている。それはつまり、ようやく自分の心の声が、聞こえるようになってきたということなのかも知れない。

違和感へのアプローチ

自分を取り巻く枠組みに違和感を感じた場合、その枠組みから離れて生きていくか、枠組みそのものを変えることに尽力するか、どちらをとるか自分の気持ちと相談して決めていくのが良いと思う。違和感を自覚することは、自分の心を救う上でとても重要なことだが、その違和感がどこからくるものなのか、どうすれば解消できるかについては、少し時間をかけてでも、自分なりに納得する答えを探しにいった方が良い。

 

今はスマホに問いかければ、すぐにそれなりの答えを見つけることができるが、それってつまりは、考えるプロセスを省いてしまうことともいえる。答えのない問いに対して思い悩まなくても、先人の経験から導かれた答えを持ってきてくれる。それが、何を意味するのか、それによって何を失うのか、ああだこうだと悩み、自分なりの仮説をもってじっくり考える時間が何につながるのか。この答えを私自身まだ見出せないでいるが、なんとなく、この環境に慣れ親しんでしまうと、インスピレーションの泉を枯らしてしまうのではないか。そう思うのである。

 

今年はなんだか、いろいろな分野に彗星のごとく現れて人々を魅了し、行動を大きく変えた新しい枠組みが、本当に正しかったのか、改めて見直す時期にきているのではないかと思う。全世界同時に経験した苦しい期間、忍耐の時期を経て、改めて、これからより良い時代を作っていくにはどうすればよいか。

 

違和感を放置するのではなく、かといって提示された解決策を何も考えずに取り入れるのではなく、じれったいと感じるかも知れないが自分の頭で考え、納得できる解を見つけたい。そうすることで、きちんと熱の通った、自らの言葉でビジョンを語れるようになるのではないかと思う。

この世界と自分はどうつながっていきたいか

気づけば会社勤めをしてもう少しで20年がたつ。つまり、小学校から大学まで、学生だった頃よりも長い間、働いている。学生時代に、いかに世界のことを知り、そしてこの世界と自分はどうつながっていきたいのか、よく考えて模索しておくことが大切かということを、今になって実感する。学校に通う何倍もの時間を、人は生きていかなければならないのだから。

 

私を含め多くの人は、就職活動を通して、どういう会社に勤めるかという問いに向き合うことになる。それは、社会という大きなジグゾーパズルの中で、どこに自分をあてはめていくか、という選択とも言える気がする。まずは社会があり、その社会はどのように作られていて、どんな思想をもった人たちが誰から影響を受けて生きているのか、そこで自分はどのように機能していきたいのか。就職活動という言葉だけをそのままとらえると、就職先として適切な会社を探していく活動のことなのだが、本当はその前に、自分を取り巻く社会のこと、世界で起こっていること、過去(歴史)のこと、生物のこと、化学のこと、そういった、学校で学ぶあらゆることを通じて、「自分はこの世界とどうつながっていきたいのか」という問いに向き合い、つながるきっかけをつかむことが大事だったのではないかと思う。もちろん、学生時代、そんな風に思いながら授業を受けた記憶は一切ないのだけど。そういった「能動的に世界に関わっていく」姿勢を持たないまま社会に出てしまったので、社会人20年近くたった今改めて、「この世界と自分はどうつながっていきたいのか」という問いに対して答えを見出せないでいる。そして、いつの間にか、自分の成果を積み上げることにより達成感を得て、自尊心を満たす。そういった、本来人生の目的ではなかったことを追うことが自分のマインドを占領していたように思える。

 

この連休中は、良い本に巡り合い自分の考えを見つめ直したり、残し続ける価値がある古い建物を見てそこに暮らしていた人々に思いを馳せたり、逆にこれからの建築や環境のあるべき姿の一例を見てまたインスパイアされたりと、自分の中でしばらく休眠状態にあった、なんならもう枯れかけていたインスピレーションの源が活性化された気がする。それらの経験は私に改めて、「この先、自分は世界どうつながっていきたいのか?」という問いを投げかけてきたように思える。何歳になっても、自分が本当に好きなことに関わっていたら、インスピレーションの泉は枯らすことなく活性化させ続けられるだろう。努力を苦労とは思わないだろう。そのことに気づかされた連休だったように思える。このインスピレーションの源を、枯らしてはならない。

優しさ

優しさであふれる場所であった。それは、心がすーっと解きほぐされるような肌感覚であったり、そこにいる人との会話で感じたことでもあるのだが、なぜそう感じたのだろうと振り返ってじっくり考えてみると、やはりそれらはきちんとデザインされているということに気づく。それは丸みのある宿泊棟やレストランや図書館のような建築物のデザインでもあり、そこに住んでいる動物や植物ができる限りストレスのない形で生きながら共存できる環境のデザインでもあり、そしてそのように生きる動物とのふれあいや料理・食事を通してあらゆることに感謝し、さらに学びたくなる体験のデザインでもあり。

 

理解する、という言葉は、仕事でも日常でも普通によく使うが、例えば、愛についてとか、苦しみについてとか、概念的なことについては、自分が本当に正しく理解できているのか検証できないのだが、ある時すとんとその言葉が腑に落ちる瞬間があって、ああこれが愛という感情なんだなとか、そういうことなのだが、今回の経験を通して、優しさってこういうことなんだろうなと思った。そして、基本的に人間が作ったものではない自然の摂理というものは基本的にはすべての生物が存続可能な状態を目指すように作られていてそれは時には過酷な状況で生き抜けなかった生物もありはするものの、生物の方も生存競争に勝ち抜いていけるための方法を模索しながら子孫を残していくので、基本的には整合性が取れた世界である。ということも同時に感じた。つまり優しい世界を人間が人間の手でデザインして作る場合、人間だけではなく生物・植物すべてのものができる限りストレスない形で生きられるような環境を作っていくことが求められているし、それが本当の意味でのサステナブルデザインということなのかと思う。